5月3日
50円の駄菓子を欲しがる子どもに、親が100円渡しているのを見た。
子どもは親に「(100円あるから)2つ買っていいか」と聞き、それに対して親は「一つ買ってお釣り50円もらえばいいやないか、ちょっとは頭使え」という。辛い気持ちになった。そのあとも別のやり取りで「頭使え」と言い放っていて、子どもが不憫だった。この数分で2回。いったい、一日で何度言われるのだろう。こんなふうに日頃から言われ続けて育った子どもはきっと「私は頭が悪い」と思うようになるだろう。
生活をやろう、という気持ちになってきた。災害に備えた食糧備蓄のしくみ、古紙のまとめかた、窓にカーテン代わりの布の設置、日用品の買い出し。引越直後に隣人トラブルに見舞われ、耐えきれず再引っ越しを検討していたので「どうせ引っ越すし」というモードが続いていた。ようやくという感じだ。
初対面の人にいきなり面と向かって「高市を辞めささなあかんすね」と言われ、どぎまぎして苦笑いしかできなかったのは何だったのだろうかと考えている。意見は一致しているのだが。「あんたもこっち側ですよね、違うんですか」みたいな問いをノータイムで突きつけられ、強制的に回答を求められる感じ。
5月某日
最近、ニュージーランド在住の書き手ガメ・オベール氏の文章をSubstack上で読んでいる。有料なので引用するのが憚られる。けれど引用していろいろと考えていることを書いたりしたい。今はとりあえず様子見。最近、日本において「民主主義」とかいうときに、その意味というか内実はいったい何なのかということを考えている。
畑の人の呼びかけで、トークイベントの視聴会。テーマはよくわからなかったが、藤原辰史とナウシカという組み合わせに興味をもって参加した。
「土は全部死体」という話が印象的だった。森の中に残された動物の死骸を観察していると、みるみるうちにあらゆる生物がやってきて分解していく。リスが死体の脂肪を舐めにくるらしい。「食ったり食われたりしていることで、自然は安定している」という。人間だけがそこから遠ざかろうとしている、と。
5月8日
先日触れた、ガメ・オベール氏の文章で印象的な記述があった。「他人の視線」を内面化することと全体主義がつながっている、という話。人から変に思われるんじゃないか、周りがああしているから同じようにしよう……という心の動きの先に、全体主義がある。
5月9日
天気が良い。体調も良い。頭も重くないしネガティブにもならない。戦前あるいは戦時中に、市井の人々がどう生き抜いていたのか、それを知りたい。知る必要がある気がする。仕事終わりにアバンギルドで片想いのライブを観た。片想いはけっしてカッコつけておらず、優しい。
5月12日
修理に出していたスニーカーが返ってきた。圧倒的に歩きやすい。蹴り返しが違う。
5月14日
今日は調子が良い。調子には浮き沈みがあると思っておいたほうがいい。
ある業界に身を置くことは、その業界にかかわる言葉の使いかたに敏感になる、ということなのではないか。「教育」とか「出版」とかいう一般的な語にも様々なニュアンスが含まれており、発する人によって込められる意味や文脈は多様だ。ここは「業界」全体の水脈のどこに位置していて、たとえば一つ石を置くと流れがどう変化するのか、河原から眺めているのではわからないことが少しずつわかってくるようになるのだと思う。
5月30日
国会前で行われたデモの、本田由紀さんのスピーチ動画を見た。友人がリポストしていて、見ているうちに引き込まれ、見終わる頃には少し泣いていた。
自分は傷ついていたのだと思う。
国から、国の指導者から、お前の命や生活や大切な人やその人生、これまで過ごしてきた日常、これから自分が思うように気持ちよく生きてゆきたいという人としてあたりまえの望み、そうしたものには一切価値がなく、踏み躙ってよいのだと暗に示され続け、しかし表では「あなた達にのために力を尽くします」と張り付いた笑顔で述べられる。為政者が実際のところどういうつもりなのかはわからない。少なくともわたしはそう感じていた。わたしはコケにされているということに、傷ついていたし怒っていた。そういうことに気付かされるスピーチだったと思う。
これくらい怒っていいのだ。腹の立つことがあったとき、話を聞いてくれた人が自分以上に怒ってくれて気持ちが楽になることがある。私の感じた怒り、悲しみ、辛さを、まずは認めたらよいのだ。
