とりあえず日記

とりあえず日記

生活の記録

4月20日(土)

なんとなく頭が重くて不安な感じがしてこれは抑うつ的な症状と言われればそうだし、朝から朝食も食べる前にはりきって身体を動かし過ぎた疲れとも言えるだろうし、昨日夕方図書館に籠もって気になっていた本をかたっぱしから借りてさらっと読んで買う本、今はいいやという本、みたいな選定作業をずっとしていたことの疲れもあるだろうし、おそらくその全部が絡み合っていて、とにかく頭がぼうっとするので今日はあんまり無理しないほうが良い。

対策、ということになると整体師的には深い呼吸を意識してリラックスせよ、心療内科医YouTuber的には心は脳だから脳を休めろ、あとなんだ、坂口恭平的にはインプットをする気が起こらないのはうんこが出てないのと一緒だからうんこしろ、つまりアウトプットせよ、手から先運動がいい、みたいなみんな好き勝手なことを言うのだがとにかく布団をしいて横になることにして、あとは妻に風呂に入ったらとも言われたがさっき食べたナカザワのカレーがまだ胃に残っているのでとりあえず横になって、そうだ坂口恭平は心は心臓、心がしんどいときは心臓が疲れているから横になって心臓を休めてあげるといいよと言っていた。

心は脳、心は心臓、このへんをどう捉えるかでけっこう人間観が変わってくる気がするがとにかくどちらでもいい、いやよくはないか。このあいだおんなじような既往歴のある友人に毎日文章書いていると伝えるとめっちゃ頭脳労働やん、と驚かれて、でも好きやからいいんか、と納得されたけれど心は脳派からすると適してないことをしているわけで、どうすればいいのかもはやよくわからず、しかし布団にうつ伏せになって枕に顎を置いて両手を前に出してキーボードをパチパチやるのはわりあい悪くない、という気がする。

パチパチやったりスマホで人の書いた文章を読んでいて思い出した、朝ごはん食べたあとに矯正歯科の話を妻として、それでだいぶ疲れてしまったというかもうなんか一切考えたくないみたいな気持ちになって、それをたぶん引きずっている。矯正歯科から昨日電話がきていて出ず、2週間くらい前もそのまた2週間くらい前も出ず、ずっと居留守を使い続けていて、それは矯正歯科が保険適用でなく毎回の診療代が高いということと、それ以上に通い始めた数年前とは自分の健康とか身体にたいする考え方というか問題意識の持ち方、どのへんをどうなんとかしたいのか、というのが変わってきている感じがあり、だからもはや矯正歯科にいま高い金をかけて通う理由を見失っている、というのがありずっと居留守を使い続けているのだ。

窓口の担当者は心折れずによく電話してきてくれると思う、妻と話していて期間を決めて通って、通うなら矯正歯科で指導されていることもきっちりやって、今はサボっているのでそれをちゃんとやって、効果が出たか確かめてから通うのをやめるか判断すればいいのではという話にもなったが、そもそもおれはここに通ってどうなりたいんだっけ、というのを見失っている。

もともとは歯ぎしりが強くて身体の特に背骨がゆがんでいてそういうのをトータルで顎関節関係のバランスを見てくれるというのを期待して通い始めてスプリントという、いわゆるマウスピースみたいな、マウスピースとは厳密には違うけどまあ似たような器具をまあまあ高い金を払って作ってもらい毎日着けて寝ているのだが、結局これを使い続けるにはメンテナンスで年何回か通う必要があり、もうどうしようかな、書くのもめんどくさくなってきた、とにかくめんどくさい。

4月19日(金)

メモを見返すと「いつでも呼吸を意識すること、深く、気持ちよく吸って吐いて、それが大事だ」と書いている。しかしこれを書いている20日(土)の時点ではいくら意識してもヨガしても瞑想しても横になって体操しても呼吸法を試しても昼寝してもなんとなく重だるく、そうなるともうこの日のことをリアリティもって書くなんて無理じゃね、という普段ぜったいに使わない標準語イントネーションのしゃべり方というか書き方をしてみたくもなる。

とにかくこの日はわりあい調子がよかったので午前中に日記を書いて、本棚を作るべくベランダに出て、直射日光が当たりそう、まあええかと思って作業を始めると暑く、やはり日差しを避けながら作業を進めた。きのう途中で再生を止めていたPerfumeのライブ映像を流していたが、Perfumeのライブは基本的に生歌ではなく、それはもうファンの間では暗黙の了解で、昔は口パク是非問題みたいなのが外野で盛んに議論されていたがとにかく録音されたものが流れているので、視線は手元の構造用合板1.2mmに紙やすり240番、耳はライブDVD、となるとMCのパート以外はCD音源をエコーというのかリバーブというのか未だにこの違いが分かっていないが響きが違うだけの通常の録音物を聞いているのとさほど変わらず、日光のせいでたまにモニタに目をやってもよく見えない。

疲れ果てる前に作業をやめる。えらい、と自分を褒めながら昼食をつくり引き続きライブ映像を観るが、Perfumeの三人がカートに乗って客席にサインボールを投げ入れるファンサービス的なコーナーでなんだか少し怖くなってきた。それまで背景の米粒でしかなかった客の顔とか表情、動きがよく見えるようになり、客から演者に向けられる一人ひとりの欲望が如実に画面にあらわれている気がしてそれがけっこうグロテスクに見えて、これを3万人ぶん引き受けるというのは尋常な行為ではないなと思い、それからライブ2時間半とかある、誰だっけか、柴田聡子がビヨンセのインタビューだか何かを読んだ感想だか何かで人を何時間も本当は熱狂させられるはずはない、みたいなことを読んだんです的なことを言っていたのを思い出した。

午後、散髪。暑い。3ヶ月ぶりに切ってもらいさっぱりして、近所の古本屋をちらっと覗いて一軒はまた訪ねたい感じにならず、でもずっと営業している。あの店何なんだろう、と思いながら図書館へ移動。最近は気になる本があったらカーリルに登録して近所の図書館の蔵書を調べ、あれば借りる、なければAmazonの欲しいものリストに入れる流れだったがそのリストも新鮮さが落ちてくるというか、リストに入れたものの取り寄せが面倒だったりタイミングを逃して借りなかったりで、しばらく経つとなんでこの本リストに入れてるんやっけみたいな状態が発生して、そうなるとどんどんリストが形骸化するというか自分の関心のメモとしての機能が一気に落ちるので今日はこれを整理することにした。

かたっぱしからリストに入っている本を蔵書検索して在庫があれば手に取ってページをめくり、これは、これは読まんといかんという本は手帳に「買う本」として書き付け、ああ、これは読みたいけど今買うとか借りる感じではない、しかし関心のあるジャンルや切り口だしいつかちゃんと読もうとするかもしれない、という本はブクログに「積読」として登録することにした。積んでいる場所が図書館なだけなので。それ以外の、ああなんか思ってたのと違うかもな、みたいなのはそのまま特に何もしない、みたいな感じでリストを整理していくとだいぶ頭のなかもすっきりした。今読みたい本、読むべき本みたいなものの焦点が調整される感じがしたのでよい。あとは近所の大学図書館と市立図書館に蔵書があるぶんを同じ作業をやって、これらのリストのメンテナンスをしていくようにしたい。

帰り、玉の湯に寄って一息ついてご主人と話し、妻の実家の親戚に行って妻の妹の娘が来ていて、つまりこれは姪っ子ということだと今あらためて自覚しておれには姪っ子がいるのか、ということに毎回驚くけれどそういう話を自分もするようになったのだなという感慨があった。

4月18日(木)

起床、のち、布団の上で10分だけヨガ。ずっと見ていたYouTubeチャンネルから最近別のチャンネルに変えてみると余計なノイズがなく、ノイズというのはインストラクターの過剰な語り、今月は牡牛座でどうたらこうたら、新月でどうたらこうたら、自己肯定感がどうたらこうたら、そういう微妙に気になる要素が排除されていて、いわゆる動画の完成度が高く、それはけれど若干不気味さもあるというか、インストラクターの動きも無駄がないし語りにも無駄がないし、カメラアングルも、ああそこそこ、その角度からどうやってるか見たいんですよねみたいなものも網羅していて非常に規格化された工業製品的なセルフメンテナンス装置を提供してもらっている、みたいな気持ちになる。

午前、今日はもう何もタスクをせんのだ、ゆっくりするのだとソファやラグに転がりながら昨日古本市で入手した片山洋二郎『生き抜くための整体』を読む。「野口整体」に影響された著者の本で、野口整体が何かはうまく説明できないが昔知人がとても推していて、とにかく本書では「呼吸が大事」と言っている。冒頭から「整体ってなんか『あやしい』ですよね」と俯瞰的な視点でその「あやしさ」を自らきちんと解説しているのがいい。書かれていることを読みながら実践してみると確かに身体がリラックスしていくのがわかり、ああこういう状態を保ってなんぼやんなみたいなところに落ち着いた。著者によれば「よいリラックスがよい集中を生む」らしくそれはなんとなくわかる気がし、ドラゴンボールでいえば精神と時の部屋から出てきた悟空と悟飯を見たベジータが「…ごく自然にあの状態でいやがる……」と言っていたあんな感じで、いまこれを書くためにドラゴンボール完全版を開いたけどやっぱりページが大きくて紙が白くて良い、とにかくよいリラックスとよい集中、それをやっていきたい、と思いながら過ごしていたら昼。

午後。先日実家から引き上げてきた本を本棚に突っ込んでしまった結果、自分の脳内の拡張としての、いまの新鮮な関心や思考が伸びたり芽を出したり広がったりするビオトープ的な場所にはなっておらず、ビオトープというのはなんとなく意味をわかったつもりで使ったが検索すると生態系的なことで、そのためには鮮度の落ちた本、20年前は雷に打たれたように読んだが今は違う本、むかし入れ込んだ趣味に関するもの、それらの棚自体は分ける必要があり、その設計をうんうん唸ってメモしたりした挙げ句、結局いまあるものと同じ本棚をもう一つ造ることにした。環境設計、環境設計、前にも調子が悪くて動けなかった時間を経たあと最初にやったことはこれだった。

夕方、ああ、嬉しい気持ちになりたい、と思い久しぶりにPerfumeのブルーレイを再生しようとしてMacに繋いだがMacはブルーレイ再生に対応していない、というか有料ソフトを買う必要がありそのソフトの出来も微妙、今は知らんが数年前はそういう状態で、ディスクを挿入してみたがやっぱりただのデータファイルとしか認識せず、なんやねん、という気持ちになり別の、もう何回観たかわからない最初の東京ドーム公演のDVDを取り出して再生して、初めてPerfumeのライブ映像を観たときの気持ちを思い出して少し泣く。「神曲」みたいな言葉は陳腐で安っぽく使いたくもないが、映画だかドラマの『モテキ』の台詞「弱っている時のアイドルソングは麻薬」が的確に表現しているように、不安定な、よりどころのない、何か、別の何か、何かを、と彷徨っているときに出会うアイドルのパフォーマンスは神がかったそれとして映り、ライブに行ってステージ上に注ぐ視線、期待、高揚、それらは全て神を目撃しているような、だから外野からするとある種「宗教的な」ハマり方をしているように見えるのはそう間違ってはおらず、当人にとって目の前にいるのは神であり、そこで起こっているのは救済なのだ。と書くとやや大袈裟、でも当時は本当にそういう気持ちでライブに行っていた。

パソコンのモニタに映る3人はまだ若くて幼く、奔放というか、ああ20代前半なんだなという感じがする。前半?中盤くらいか。とにかく最近、同世代と話していて最近の20代前半くらいの人たちはこう無垢で、変なてらいや屈託がない、そんな感じがするよね、みたいなことを言っていたが別に世代は関係ないのかもしれない。画面上にうつる3人もなんだかそんな風に見える。たぶん多かれ少なかれ時代背景とかも影響して世代によって差はあるのかもしれないが、ひょっとすると自分も上の世代からそういう風に見られていた部分があったのかもしれない。

ライブが始まって数曲目、『ワンルーム・ディスコ』はイントロであ~ちゃんが会場名を叫ぶのが定番で「東京ドーーーム!!!」と叫んだところで若干の気恥ずかしさと涙腺の緩みが同時にきて、いま同じ熱量で追いかけることはないがこれに熱狂した時期があって、だからもう部屋に溜まったポスターとか雑誌とかはまとめてメルカリにいま売りに出しているけれどそういう時期があったことは覚えていたいし、思い出すトリガーになるようなものは選別してやっぱり手元に置いておいたほうがええなと思い、途中で再生を止めて本を読み始めた。

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