とりあえず日記

とりあえず日記

生活の記録

4月14日(日)

きのうの疲れが残っている。この日も妻と外出の予定があったがお休みさせてもらうことにし、けれど午後になるとカフェに行ってぼーっとするくらいのことはいま必要、できる、したい、という感じになり着替えてpear pressに行くとわりと混んでいる。ベンチ席の端に本がいくつか並べてあり、これも立派な選書だよなと思う。以前見たときにはなかった本が増えている、ような気がする。気のせいかもしれない。『世界をきちんと味わうための本』(ホモサピエンスの道具研究会)が興味深く、手元に何行か書き写した。

世界はあたりまえのようにあって、すでに誰もが味わっているけれど、それをきちんと味わおうとすれば、いつもと違った「何か」が必要です。本というものはそのきっかけを与えてくれるもの。

(『世界をきちんと味わうための本』「はじめに」)

テーブル席が空いたので移動して、日記を書いて、長居することになるのでああカフェイン絶対に摂り過ぎだろうなと思いながらコーヒーのおかわりをして、ケーキも注文して日記を書いて、まわりの客をながめると女性グループばかりで、ちらほらと店員さんとお知り合いなのかなという感じのやりとり、手を振ったりまたね~みたいなのをやっているのが見られ、今日は店主の方はおられない様子で、今度おられたら本の話をしようと思う。

出て、外は暑いくらいの陽気。水筒を持ってこなかったので水、水、と公園の水飲み場に向かうと近くで子供が親と遊んでいて、もしこれが逆の立場、自分が休日の昼下がりに子供と公園で遊んでいて向こうから髪のボリュームが多くてでかいリュックを背負った成人男性が歩いてきたら絶対に警戒するだろう、ごめんなさい、けれど公園の水は市民の公共物、脱水になるわけにはいかないんでね、こちとら珈琲2杯飲んでますんで失敬失敬、と思いながら蛇口というのかひねった瞬間に出てきた水が手にかかるタイプの蛇口、あれをひねる時の指の形は親指と人差し指でハートを表現するやつに似ている、あの形で水をひねり出してごくごくと飲む。

鴨川沿いに出ると葉桜、だいぶ緑をたずさえた桜がそれでもまだ悠々とした佇まいで構えており、そのふもとで人々が飲めや歌えや、歌ってはいないけれど誰もが陽気でその合間を縫って暑い暑いと言いながら進む。リュックから本を何冊か取り出して川を背景に写真を撮り終えたところでさっき公園で補給した水分はもう身体から全て出てしまったようでもう次の補給をしなければならない。引き返してまた同じ公園に来たが今度は水飲み場のすぐそばで子供たちがグループで遊んでおり、さすがにそれに分け入っていくことができず家に帰って水筒にイオンウォーターの粉で溶かすやつを溶かしてがぶがぶと飲んでカーペットに倒れ込んだ。

夕食、妻が火鍋にすると言いながら取り出した火鍋の素、的な中国の物産店で買ってきたそのパッケージに書かれた鍋はそれはもう地獄の釜のような色をしており、ほんまにこんなもん食べられるんかいなという一抹の不安はそう外れていなかったようで、妻がパッケージの指示どおりに鍋に入れて煮込むとほぼラー油鍋みたいな様子になったので豆乳などを足してくれたがそれでも食卓のカセットコンロの上で湯気を上げている鍋の表面には赤くてテカテカした油分がつるつると笑っており、おれは辛い、辛いんだぞと言わんばかりだ。じっさい取り皿に移してしいたけ、肉、餃子などの具材を口に運ぶがもう口が痛い、し、顔面の中心あたりが突っ張るような感じで汗が出てきてこれは、これはもう食えないと思ったがせっかく用意してもらったものに対してそのようなことは言うべきでない、と辛さにやられた脳がかろうじてささやいており、豆乳とか水を取り皿に入れて薄め、表面に浮いた赤い油や具材にへばりついた唐辛子を一つひとつ取り除いたりしてなんとか少しずつ食べ、私より辛いものに耐性があるはずの妻も顔が赤く、汗だくで「これ、もうやめよっか」と言うがやめる、やめるとはどういうことか、食べるのを?けれど今日の夕食は火鍋、やめる、やめたらどうなる、その先はもう考えられなくなっており2人で辛い、これは「つらい」の意味で書いた語だが辛いと言いながらある程度食べ、『光る君へ』が始まるまでに口直しのアイスを買いに行く、という口実に鍋の半分くらいは残して家を出た。
ドラマを見ながら胃の中で何かがうごめいている。妻はアイス、私は飲むヨーグルトを飲みながら吉高百合子は徒歩で石山寺へ向かった。めっちゃ歩く。が、うちはもう2人とも歩けないくらい火鍋にやられてぐったりとしており、結局ろくに片付けをする元気も出ないまま這うように布団にゆき、胃が、胃が、と言いながらなんとか眠った。

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