とりあえず日記

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生活の記録

5月22日(水)〜23日(木)目ぇ全然見えてへん状況

5月22日(水)

午前、散歩お休み。横になりながらピエール・バイヤール『読んでいない本について堂々と語る方法』を読む。タイトルだけ見るとふざけた本だが、永田希『積読こそが完全な読書術である』に引用されている著書で、「読んだ/読んでいない」という状態に深く切り込んでいく。

注意ぶかく読んだ本と、一度も手にしたことがなく、聞いたことすらない本とのあいだには、さまざまな段階があり、それらはひとつひとつ検討されなければならない。「読んだ」とされる本に関しては、「読んだ」ということが正確に何を意味しているかを考えるべきである。読むという行為は実はさまざまでありうるからだ。反対に「読んでいない」といわれる本の多くも、われわれに影響を及ぼさないではおかない。その本の噂などがわれわれの耳に入ってくるからである。

本書では、一般に人がいだく理想的な読書のイメージとは裏腹に、読書行為に見られるある種のあいまいさ、いい加減さ、意外性などに注目することになるだろう。

(『読んでいない本について堂々と語る方法』p.8 序)

午後、適当な昼食をすませて京阪に乗って歯科へゆき、その足で枚方公園駅で下車する。枚方公園駅は東側にしか降りたことがない。ひらかたパーク、通称「ひらパー」があるからだ。西側は住宅街で、路地を少し進むと商店街の名残のようなものが感じられる。昔ながらのパン屋さんを発見し、さっき駅前のローソンで20円引きのツナマヨおにぎりを食べたことを後悔した。

いくつかの飲食店を横目に歩いていると、後ろから大きな声がする。振り向くと、屈強な色黒の男が電話で喋っている。「今、目ぇ全然見えてへん状況ですか?とりあえず、しばらく流水で洗ってもらったほうがええと思うんですよ」。何があったんだ。自分も以前、ハイターを触った手で目をこすってしまい病院に行ったことがあるが、目が見えないほどではなかった。し、目が見えないくらい事態が深刻だとすればこの屈強な男はどうしてこんなに落ち着き払っているのか。というかこの男は何者なのか。非番の医者なのか。

男は後ろの角で曲がったようで、声は聞こえなくなった。少し進むと坂があり、坂の先は視界が開けている。川がある。という予感とともに坂を上がるとやはり広々とした河川敷、幅の広い川、川の向こうには住宅街。淀川である。交差点の脇に石碑が立っており「郵便屋の渡し」と刻まれている。どうやら昔、淀川に橋がなかった時代に対岸(摂津国)に行く唯一の交通機関渡し船で、渡し場が近くにあったらしい。明治時代に対岸に鉄道が開通して以降、このあたりの郵便物をとりまとめて、渡し船国鉄高槻駅まで運んだ、と書いてある。

高槻。いつも忘れては思い出すが、高槻と枚方は近い。淀川で隔てられているうえに、現在は高槻に阪急電鉄・JRが、枚方京阪電鉄が通っている。阪急・JR沿線で育ち、京都に住んでいて車移動が少ない自分にとって、高槻や枚方のエリアを思うとき、川と線路が地図を縦に切るラインのイメージが浮かぶ。けれど横のラインがあるのだ。袋か何かに詰められた手紙の山を船頭が受け取り、どすんと船において、ぎいぎい漕ぎ、向こう岸に着いて対岸の国の人に渡すのだろう。
目的地であった「古書 ぽんつく堂」で本を何冊か購入して、帰りにブックオフにも寄った。今や「110円コーナー」はなくなっており「220円コーナー」に置き換わっていた。という話を、帰ってスーパーのパック寿司を食べながら妻に報告した。

5月23日(木)

手元のメモに「スマホに支配され、なんか疲れているとバッド入りそうになったところをフローヨガで、すんでのところで食い止めた」とある。「バッド入る」という語句は誰がどこから使い始めたのか、自分が口語で使うことはほとんどないが、書き言葉のうえではネットスラング的に使いたくなる時があるようだ。夜、Instagramである投稿を見つけ、ひとつのことを決め、そのことについて妻と話し合う。

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