8月22日(木)
前にも書いたが最近、近現代史を学びなおしていて、教科書的な記述、思想書的な記述、物語的な記述、この3つが揃うとその時代がずいぶん立体的に見えてくるということに気がついた。教科書は史実の確認、思想書はそれに関する時代背景や世の中を動かす力学のようなものの把握、物語はミクロな、その時代を生きた個々人から見た時代の記録。ここ数ヶ月、こんなに買ってどうするんだろうかという量の本を買い込んでおり、買った瞬間はこんなに買ってどうするんだ読み切れるのかという罪悪感に似た感情を抱えるのだが、当然それらの本を全て、一言一句、最初のページから最後のページまでを読み切ることはできないのだ。
永田希は『積読こそが完全な読書術である』において、現代は出版不況と言われながらも未だ膨大な点数の出版物が刊行されており、さらにインターネットを含むあらゆるメディアによる「情報の濁流」に飲み込まれ、あらゆる情報が自分の環境にどんどん積み上がっていく「積読環境」に私たちは暮らしていると指摘する。だからこそ、自律的な積読環境をつくることが重要だと主張する。
現代を生きる人は、社会で進行している積読環境に抗って「自分なりの積読環境」を構築しなければなりません。情報の濁流という大きな積読環境のなかに、自作の積読環境を生み出し、運営するのです。情報の濁流のなかに、ビオトープを作るということです。
永田希『積読こそが完全な読書術である』(p.42)
読書において、読み落としたり、理解できない箇所をとばしたり、内容を忘れてしまったり、そういう「不完全さ」は避けられないもので、だから、「完全な読書」をあきらめること。積んでもよく、むしろ積極的に積むこと、それこそが読書だと永田は言い切る。冒頭に書いたようなことはまず「積む」ことなしには気づかなかったことだ。
8月23日(金)
プリンタが届いた。
8月24日(土)
洋食屋が混んでいて、オムライスカレーソースLを頼んだ。遅れて入ってきて私の隣のカウンター席に座った若い男はオムライスカレーソースMを頼んで、しばらく待つ。ホールのひとは1人しかおらず、てんてこ舞いといった様子で注文をさばき、料理を提供している。さらに待つと、先に隣の若い男にオムライスが提供されて、男はしばらく食べたあとホールスタッフを呼び止めて「お姉さん、これ、Lです。たぶん間違えてます、僕はプラス料金なるのは全然かまいませんので」と話していて、きっと私のLが彼に提供されたのだ。少し待って私のほうにもLが提供されて、オムライスが美味い。
隣の男は食べ終わったのにしばらくじっとしていて、心なしかこちらの様子を伺っているようにも見える。どういうつもりだろうか。そういえばさっき調理場のひとがホールのひとにオムライスのLとMの伝票を書き換えて云々、と話していた。ひょっとして、彼はもうMサイズの料金でいいよ的な話になったのか?とすると、彼が私が食べ終わるのを待っているふうなのは「僕のほうが後に注文したのに先にいただいてしまって、しかもMサイズ料金でLを食べてしまって、だからお兄さんぶんのLサイズ分の差額、払いますよ」みたいなことを言いだすのではないか。みたいなことを想像する。ふつうはそんなことしないし、されても迷惑だし、店側がそういう対応するならわかるけど、なんとなく、彼の店員さんへのやけに丁寧な接し方とかを見ているとそういうことを言い出しそう、というなんとも言えない健全な不気味さみたいなものを彼はたたえている。
ピークを過ぎて店は空きはじめ、しばらく涼んでいきたかったのでゆっくり食べて、お水もゆっくり飲んだりしているのに彼はまだ帰らない。そしてとりあえずトイレだ、と立ち上がると彼も同時に立ち上がり「ひっ」と思った。彼は「なんだトイレか」と思っただろうか。用を足して戻ったら彼が待っていて、同じタイミングで会計に向かおうとするのだろうか……と恐る恐る席に戻ると彼は姿を消していた。