8月25日(日)
イズミヤでレモン果汁の瓶を探す。大手メーカー製造の比較的お得な大きめの瓶の原材料表示を見るとイスラエル産のレモンが混じっている。パレスチナの問題について考えるようになってから、レモンの産地を少し気にするようになった。レモンもレモン果汁もそう頻繁に買うものではないが、レモン果汁の原材料表示にはたいていイスラエルの国名が記されているような気がする。隣の、小瓶、150ml入はイタリア産。300ml必要なので2本買わなければならず、大瓶よりも300円弱割高で少し悩んだが、結局イタリア産小瓶2本にした。この購買行動が果たしてどこまで意味があるものだろうかという気持ちもあったが、たかだか300円の差額に悩んでいることもアホらしかった。
8月26日(月)
翌日に閉業を控えた老舗のうどん屋に入るとお昼のピークを過ぎていたからかそう混んではいなかった。「ミニ天丼定食」を注文するとあいにくミニ天丼は売り切れらしい。後ろの席のおばちゃんが声をあげる。
「えええ、ミニ天丼売り切れやって、売り切れかあ。ほんなら私明日の午前中にいちばんに来て注文せなあかんわ」
メニュー表を見直して、海苔と卵の乗ったつめたいうどんと、かやくごはんを注文する。店内は私以外ほぼ馴染みの客、という雰囲気で、知り合いのインスタ見て閉店って聞いて、ええっ悲しいと思って来たんです、と2人組が女将さんと話している。さっきミニ天丼売り切れにおののいていたおばちゃんは、もう食事が終わっているのかと思いきや追加でうどんを注文していた。
何十年と続いた老舗銭湯が閉業する、という報を聞きつけて閉店日までにすべりこみ訪問する、ということをたまにやるのだが、いつもなんとも言えない気持ちになる。閉業するのだから、今行かなければ二度とそこに入ることはできない。けれど、たいてい閉業前にやってくるお客さんというのは別れを惜しんでいるもので、店内はお客さんから漏れ出た感謝と惜別の念で満ちているのがわかる。視線や、身振りがそれを物語っている。そしてたいてい1人か2人は、店主と話して別れを惜しんでいる。
そんな空間のなか、にわかの、閉業するからと行って初めて来ましたといったふうの自分などはどこまでいってもよそ者なのだ、ということを思い知らされる。まわりの客のように、その場所との間で蓄積された時間というものが存在しない。だからこの風景はもう二度と見られないのだという感慨と、しかし自分はこの店とペラペラの薄い関係しかないのだ、ということの両方を突きつけられる。