とりあえず日記

とりあえず日記

生活の記録

3月24日(月)

家フリマ2日目。自室の本棚を開放します、自由に眺めてください、よろしければお貸しもできます、という貼り紙を書いて自室の入口と本棚に貼り付けていると、11時にAくんがやってきて彼も交えて出店準備を進め、妻と3人でトマトパスタを食べた。12時から予定時刻の15時を過ぎた頃まで、代わる代わるいろいろな人が来てくれた。妻の勤め先の同僚とそのパートナー、自分の元同僚、妻との共通の友人など。最終的に文庫やキーホルダーや腕時計などが売れ、本棚を眺めていってくれた人も何人かおり、折をみて棚にある本やない本の話をし、何冊かは実際に貸し出すことになった。

先日、古本屋で購入した俵万智『サラダ記念日』の単行本に「御蔵山読書会 1」とサインペンで手書きがしてあり、貸出記録が、あのむかし懐かしい図書館に行くと本の最初だか最後だかのページに貼り付けられている、借りた人の名前を書いていくシステム、これを真似して今回貸し出す本にも付箋で似たような紙をつくり、貸出開始日と名前を書いてもらうことにした。特に期限は定めておらず、返せる時に返してもらったらよい。

友人のひとりと話していたのだが、人から本を借りるという行為、というよりも返す瞬間というのはエネルギーのいるもので、感想を言わなければならないのではないか、全部読んでないんだけど、あるいはなんか違うと思ってろくに開きもしなかった、そういうことを面と向かって言うのは憚られる、あるいは伝えることに労力がたいへんかかるので、僕は全く気にしないので無言で返してくれていいし、郵送で送り返してくれてもいいからね、と念を押す。とはいえ貸した側、借りた側で立場は異なるのでどれだけこちらが言葉を尽くしたところでその借りた側にかかる負荷は限りなくゼロに近づいたとしてもゼロにはならない、けれどこれをゼロにするとなると完全にシステム化された公設図書館になってしまう。

10年以上前、最初に勤めた職場のボスは人に本を贈る人だった。ボスはアパートの2階に小さな事務所を構え、壁はほぼ本棚で埋まり、僕は毎日そこに出勤してボスと2人で仕事をして、本の重みでいつか底が抜けるんちゃうか、と冗談をよく言っていたが今はどうなっているのだろうか、抜けていなければいい。

ボスは人に本を贈るとき、必ず見開き1ページ目に日付とメッセージを一文、それから自身のサインを添えて手渡す。アートや教育、心理学など分野はさまざまで、誕生日にもらった最初の一冊はとても感銘を受けて読み込んだように思う。その一冊はボスの人生にも影響を与え、彼が立ち上げた事業所の理念の核となるような書籍だ。本にめり込む勢いで目を近づけ、頁を繰り、付箋を貼り、メモを書き込み、ボスの血肉を自分の血肉にしようと試みた。しかしその後の数年で上司との関係性も変わり、出会った当初のような盲目的な憧れは日々業務を進める上司・部下としてのやりとりによって上書き、塗り替えられていった。自分はボスにはなれない。それに気づきつつあった頃に手渡された岡本太郎の詩集のカラフルな表紙は、古書でもないのに色褪せていた。

本を贈るというのはある種の暴力性、というとちょっと言い過ぎだがときに相手との関係性によっては絶妙な、あからさまなズレがあぶり出されてしまうな側面があり、だからこのフリマの日、友人の内面に触れるような話のあと「今の自分におすすめの本ってありますか」と聞かれ、一瞬、あーと頭の働きが止まって棚の中からひょっとしたらこれがいいかもしれない、これも、これはどうかな、と背表紙を少しだけ引き出すことしかできず、それは先に書いたような暴力性を、相手の性質や状況を分析し、ラベリングするような身振りに踏み込みそうになったのをすんでのところで留まった、というかビビって足を止めたのだった。結局彼はぜんぜん別の本を借りて帰り、今日のことは大事に覚えておこうと思っているがこれ以上書き進められないのでここで止めておく。

f:id:r_ps22:20240329155949j:image