とりあえず日記

とりあえず日記

生活の記録

3月22日(金)

早めに起床したが前日にかなりの精神エネルギーを消費したので疲れている。洗濯をして眠り、とにかく自室が段ボールで足の踏み場もない状態になっているのが耐えられない。ものを書くにも考えるにも、ノイズをできるだけ排除しなくてはならない。数日前に自宅から根こそぎ持ってきた服、本、CD、これらは明日から自宅で開催するフリマの商品となるものもあるが、手元に置いておきたいものもあり、それらを選別する。段ボールを開け、フリマ、手元、フリマ、手元、フリマ、と仕分けてひとつずつ段ボールをやっつけては畳んで部屋の端に追いやっていく。昼過ぎくらいにはなんとか整理が終わっただろうか。前日まではある程度隙間のあった本棚はぎっちりとその内容物をたたえて重厚感が増したように見える。

夕方、友人のFくんがやってくる。月末に遠方への引っ越しが決まっているにもかかわらずわざわざ電車で一時間ほどかけてやって来てくれて、少し緊張している様子で、自分もそれは同じで、相対して2人で話すのはこれが初めてだったかもしれないが、ルマンドをあけ、豆菓子をあけ、コーヒーを飲みながら最近読んだ本の話などをする。最近読んでいるという一冊の本の概要を聞いてみるとどこかで最近読んだことと重なる気がする、と思い自室の本棚に一緒に向かいその本を探して見つける。

1990年代になって、子どもたちの間には、「ムカツク」を追い上げるように、「ムナシイ」ということばが広がり出しているようだ。わたしが育った頃には、怒りを表すことばは「腹が立つ」だった。腹の中で、なにかはっきりしないものが立ち上がってくる。これが「タツ」で、それを押さえようと力むほど「はらわたが煮えくりかえり」思わず手が出たりわめきだしたりすることになる。

敗戦後たぶん1950年代に若者たちが「アタマニキタ」を連発し始めた時、わたしがあっと思ったのは、からだの内を一気に駆け上がる怒りの噴出の鮮やかさだった。情動を押さえようとする働きが全くない。わたしは取り残された。

そして二十年、「アタマニクル」が消え始め、「ムカツク」が少年たちから広まり出した。ムカツクとは(略)世界を受け入れることも拒絶することもできない宙ぶらりんの自己表現だということになる。荒れることもあるし、自分の肉体を傷つけることもあるが結局は自分の不安定さの知覚に閉じこもったままでいる、表現をしない、行動もしないからだだ。

ムカツクにはまだ怒りたくなる対象があるわけであが、「ムナシイ」とはそれさえ今は放棄され始めたということだろうか。ぐらりと背を曲げ顎を突き出して歩く姿には上へ伸びてゆく力が見えない。

竹内敏晴『思想する「からだ」』

今思えば彼が読んでいる本とは出てくるキーワードは重なっているものの書かれていることの力点が違うように思われる。ただ、本棚を通じたやりとりが心地よく、別の本を手に取り嬉しそうにしている彼と帰宅した妻とパスタを食べ、彼が持参したパステル一式を手に取り、それぞれに一枚ずつ描いた。パステルはさらさらと、あるいはガリガリとしていて、みるみるうちに手が汚れ、右手の小指側の側面を紙に付けてこすってしまい、意図せぬところに色が広がってしまった。小学生の頃、漢字ドリルや作文をするたびに鉛筆の粉でやはり手の側面を真っ黒にし、課題用紙を汚していたことを思い出した。

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