とりあえず日記

とりあえず日記

生活の記録

2月3日(金)〜21日(火)

2月3日(金)

青葉市子さんの曲を聴く時間が続いている。サーカスナイト(カバー)のアルペジオを弾けるようになりたくて、昨日からYoutubeの解説動画を見ながらワンフレーズずつ練習して少しずつ、ほんとうに少しずつ進んでいる。あの、何をどうやって鳴らしているかさっぱり分からない状態から指をどう動かせばあの音が鳴るのかわかった気持ちよさを久々に味わっている。弾けないギターを弾くんだぜ。

2月6日(月)

かれこれ10年近く会っていなかった友人と話す。人それぞれの人生があり、一見すると順風満帆に物事が運んでいるように見える人たちにも色々な事情があるという、あまりにも当たり前のことを忘れていた気がする。しばらく会わない間に出産・別居・離婚・再婚を経験した友人の話には喜びと怒りと戸惑いと希望と不安が入り混じっており、それらを引きずりながら、その都度必要に迫られて何かを選択して今ここにいる。そういう感じがした。最近読み返している本のことを思い出す。

脱構築的に物事を見ることで、偏った決断をしなくて済むようになるのではなく、我々は偏った決断をつねにせざるをえないのだけれど、そこにヴァーチャルなオーラのように他者性への未練が伴っているということに意識を向けよう、ということになる。それがデリダ的な脱構築の倫理であり、まさにそうした意識を持つ人には優しさがあるということなのだと思います。

千葉雅也『現代思想入門』

もうさんざん言い尽くされているが、インスタでしか近況を知らないような人の人生はとくに順調に見える。結婚しただの転職しただの、とにかく外面の情報だけを切り取ってどうしても他者をラベリングするものだから、さぞうまく行っているんでしょうと思い込む。けれど実情はわからない。仕事でつまずいたり、体調を崩したり親と険悪になったり、実際には色々あるのだけれどそういう情報はなかなか入ってこない。自分には自分の、他人には他人の喜びや辛さや嬉しさや苦しさがあり、それは日々・刻一刻と変化するもので、他人のものはもちろん自分でも捉えて覚えておくことは難しい。楽しいことも、うまくいかねえやと思うことも消えてしまいたいと思うこともあり、でもそういうもんだよねということを自分で思い出せるようにしておきたいと思う。こういうことはすぐに忘れてしまう。

「いい時もあれば 悪い時もある、そう思うだろ?ほんとそう!」

2月21日(火)

雪。朝の通勤電車で名古屋入管の取材記事を読んで辛い気持ちになる。権威のもとに発生する暴力性について「個人にも責任はあるが構造的な問題でもある」とするのは同意するのだが、日常の些細な出来事に見て見ぬふりをする、例えば、立場の弱い人に声をかけるべきときに自分が攻撃対象になることを恐れてじっとしていたりする、そういう場面にもこの入管での出来事と地続きの暴力性が宿っている。そういうことを考える。「その状況じゃ仕方ないですよ」と言われて救われる気持ちがあり、しかしその救われた自分はけっきょくその構造を強化している。これは外から見ていかにも権威的な組織に限らず、どんな場所でも起こりうることだ。わりあい倫理的な理念を掲げた小規模の企業や団体であっても同じことだ。窓の外は雪。今年はよく降る。