とりあえず日記

とりあえず日記

生活の記録

3月21(木)

朝、リワーク施設の見学。通っている病院の待合に通されて問診票を記入し待っていると担当者があらわれて妻と一緒に挨拶をし、別室に通されおだやかな顔で質問されたり質問したりする。活動内容は、週何回、いくらかかって、そうですか自立支援医療適用されるから安くなるんですね、そういう外側の話をとおりいっぺん済ませたが本当に必要だったのは自分がどうしたいかということで、そもそも仕事、それ以前の生き方について見直したいと考えていること、プログラム化されたリワークに通うことで、自分がいま必要としているあらゆる作業、本を読み、文章を書き、人と会い、話し、それらが一日いちにちをごく小さな音量で流れる重奏低音のように、と書いて調べたら「重奏低音」という語はなく、あるのは「通奏低音」で意味がまた違う。とにかく、低く、いくつかの層を伴った低音が日常の中に流れている感覚、その流れる低音が媒介となって読むことや書くこと、話すこと、そういったあらゆることが絡まり、溶け出し、少しずつ姿かたちをあらわすような予感がしていること、プログラムに身を委ねることでそうした営みを続けることができなくなってしまうのではないかということ、そういうことを直接は話さなかったが、担当者との対話の中で、横に座っていた妻の発言とそれを受けた自分自身の発言の中で、自分のなすべきことがクリアになったような心持ちがし、帰り道に立ち寄った東本願寺のお堂で手を合わせ、胸がすくような思いがしたのだった。

夕刻、診察。すべきことははっきりとしていて、自身の主治医にできるだけ自分の率直な感情や状況を伝え、もう一段階踏み込んだ信頼関係を形成すること、丹田に重心をおいて主治医に向き直り、正直なところこれまで話しきれていなかったところがあると思うんですが、と切り出し、いま自分が伝えるべきだと思い当たることがらを伝えると、主治医は普段あまり表情の変わらない、しかしあくまで威圧感とは程遠い一歩引いた支援的スタンスがにじみ出ているのだが、その表情や目線がこれまでの診療の中でも最もお互いに同じものを共有した、という感覚の残るもので、それは同時にこれまでいかに自分が主治医を信頼していなかったかを突きつけるものでもあった。

人を信頼し、身を委ねることはおそろしい。倒れ込んだとき、相手は受け止めてくれるのだろうか。私を開いたとき、この人はどのような感覚や眼差しをもってこちらを向くのだろうか。そもそも眼差しは向けられるのか。景色と同じように、無きものとされ素通りされてしまうのではないか。これらを乗り越える前と後とでは目の前の人間との関係性が圧倒的に変わるが、乗り越えるのは自分だけではなく相手も同様で、乗り越えようとするその身振り、助走のようなわずかな身の動きは否応なく相手にも漏れ伝わり、その結果微細に変化した相手の声色、目線や皮膚の動きによって少しずつ、相手への懸念が払拭されていくようなことが、瞬きをするような間に全てが起こり、相手との関係性が新たなものに更新されている。そういうことが起こったとき、身体も精神もかなり浪費するのだが、けれど同時になんとか本機は無事着陸したのだという安堵があり、ようやくタラップを降り、風を感じ、視線をあげ、まわりの景色を見ることができる。