とりあえず日記

とりあえず日記

生活の記録

3月16日(土)

目覚めが悪くだるくて重く、この感じが久しぶりだ。この数週間調子がよかっただけに、Aという目的のためにBさんに話をし、その意図がきちんと伝わっているかどうかをその場で相手の反応を見ながら吟味し、不足がありそうであれば別の角度から必要な情報を伝え、目的が達成されているかどうかを確認する、といったような一連の反応・思考が鈍っていることをひさしぶりに痛感する。さらにはAという目的ももう少し吟味してみればA'という形のほうが妥当だったのかもしれず、そうなると今度はCさんにも話を通したほうがよく、そのためにはAさんにもそのことを耳に入れておくべきで、みたいなことが頭を駆け巡ったところで脳がスパークし、強制シャットダウンした。

調子が悪い日はあまり無理せず寝ているのに限るのでそうしていたのだが、夕方くらいから動けるようになってきたので鴨川湯へ向かう。フリマがやっていて最近ちまちまと図書館で借りていた『今日の猫村さん』が破格で売られていたり、使い古された浴室鏡や最近欲しいと思っていたちょうどいい大きさの肩掛けのカバンなどを購入し、身体を温め帰宅した。妻から調子が悪いのだから暴食しないように、と刺されていた釘が効力を発揮して、いつもなら一人の夕食はジャンクに走りがちだが米を炊いて味噌汁をつくり鶏と野菜を炒めて食べた。

食後、柴田聡子の新作アルバムをじっくりと聴く。今回のアルバムはCDを買っていなかったのでSpotifyに表示される歌詞を見ながら唄を追うのだが、あのカラオケみたいにリアルタイムスクロールする感じやフォントも好きになれず、曲によっては歌詞が表示されなかったりして、やはり半ば詩集として柴田聡子は盤で買うべきなのかもしれない。

「へそ曲げるうれしい日

 つぼみ咲くかなしい日

 変じゃなかった日はなかった

 窓閉ざすうれしい日

 飴をまくかなしい日」

柴田聡子『Movie LIght』

ずいぶん昔に付き合っていた人が「音楽を聞いて泣いたことがない」と言っていた。たしかあれは自分がライブに行って音が流れた瞬間に涙が出た、という体験を話した時だったように思う、あるいは家で音楽を聴いて泣いた話だったのかもしれない。とにかく相手はきょとんとした顔をして、そういう反応を予想していなかった自分も唖然として、みるみるうちに相手の姿がぼやけて、灰色に色褪せて行くように見えた。「おれのこの繊細な感覚をわかち合えぬかこの人とは」。

何かしらの芸術や文化が人の琴線のどの部分に、どの程度、どのように触れるかは人それぞれであって、それは音楽でなく文学や絵画や、なにか全く別のもの、たとえば自然とか、そういう人知を超越したものかもしれない。自分の琴線が震えたその振動や響きは身体に強く記憶されている、だから値打ちがある。すばらしい。私はこれに琴線が震える人間なのだ。それは自分を知ることであり、偶然同じものによって琴線が震える人間が現れると嬉しい。あなたも同じなんですね。

けれど微細に見ていけばいくほど、やはり震えかたは人によって微妙に、あるいは大きく異なっていて、だから思い返せば当時の自分の態度はかなり傲慢で、あなたは何に震えていますか、どう震えますか、全く同じではないけれどそう震えるんですね、その震え方をするのはおもしろいですね、そういう交歓にずんと立ち向かうアクセルが踏まれることはなかった。それをするためにはある程度の土台が必要で、それぞれ別の場所から土を持ってきて、一緒に少し水分を含ませてぺたぺたと固め、成形して、その上に座ってしばらく話して、ときおり別の人が来て土台が広がり、雨風に流されて欠けた部分を文句を言いながら補修して、その作業が終わったらまた話をし、誰かが去り、飽きたらまた少し別の場所に移ってまた土を盛って話をして、そういうことをしていきたいと思うし、いまの自分の家族や友人とはそれができそうだという気がしている。