とりあえず日記

とりあえず日記

生活の記録

3月15日(金)

朝、歯医者に向かった妻を見送ったあと濱口竜介『カメラの前で演じること』を読む。『ハッピーアワー』はとても好きな作品で、しかしその熱は最初に観た当時ほどではないので購入するか迷ったが本当に買って良かった。ほぼ演劇未経験の役者が演劇ワークショップを経て撮影されたこの5時間越えの映画のどこに自分は魅力を感じているのか、その一端を少しでも理解できればと思い手に取ったが、濱口監督が「はらわたで反応すること」と表現する事態やそれを促す重要な「聞く」という行為、その前提となる人間のコミュニケーションにおける社会的な反応、あらゆることに心当たりがあり、自分は演劇は(学校生活における行事や発表を除けば)ほぼ未経験で、しかし自分が他者と深く繋がれたと感じる場面、それは1対1でも、心理学においてエンカウンター・グループと呼ばれるような1対複数の対話の場面でも体験したことと大いに通ずるところがあり、深い溜め息ととも読み進めることになった。『ハッピーアワー』はほぼ毎年元町映画館で年末上映を行っており、体力的にも時間的にもかかるがまた観に行きたい。年末はまだ遠く、ソフト化もされているがあの映画は5時間劇場に拘束されることが必要な作品であるようにも思う。

恥は自分自身を吟味するものです。恥はどこか、そうありたい自分へと、自分を導いている、支えてもいる。しかし、恥を更新するということは、大人になること、社会の目を内化していくということでもあります。そして、大人になったはずのそのときに、恥の基盤が専ら「社会」になるときがある。それは誰に得も訪れる事態のような気がします。

このとき、そうでありたい自分であるために更新していたはずの「恥」が、いつの間にか自分に対して専ら「そうであってはいけない」というメッセージを発するものに変わってしまっているように思えます。自分を支え、導くはずであったはずの「恥」が、自分を抑え込むものに変わっている。でも、逆に言えば、「社会」の基準に合わせてさえいれば、自分自身が問われることは少ない。

p.51「ハッピーアワーの方法」

昼前、『大阪の生活史』私家版に取りかかるにあたり家系図を整理する。祖母の話を聞いたものの、ところどころ登場する人物が結局自分にとってどういう関係性にあたる人なのかを直感的に理解することができず、イエや血筋といったことに対して特段思い入れはないが、情報の可視化や整理の作業は自分にとってある種心地よい部分があり、むかし親戚がまとめた家計の歴史のメモをたどりながらA4用紙に図解する。作業を進めていると、複数の「イエ」が登場するので誰をどこにどのように書くか、ということを考えながら整理することになるのだが、やはり家系図として見やすい書き方をしようとすると否応なく「主従」のようなものがそこにあらわれる。つまり、親から子に、子から孫にと血縁関係が下へ、下へと続く部分が主となっていき、おのずと下への広がりの少ない家系は脇へと追いやられていく。なんのことはなく、それは可視化するにあたって都合が良い、つまり見やすいからであり、この作業を通じて自分の中のイエ的な世界認識を強化するように働くようにも感じられるし、一度図示してしまえばいったん頭の中での居場所ができ、不要なときは外付けHDのように外しておく、という動作ができるようになるような感覚もある。

夜、Nちゃん、Yさん、Sさん、Lさんたちと自宅でたこ焼き。最近来客が続いているのは嬉しいことだ。部屋の掃除をし、未だ来客人数分のそろっていないカトラリーや食器類をかき集め、たこ焼きなので生地や具材を用意しながら訪問を待つ。準備の途中でティッシュペーパーを新しくひとつあけて部屋の隅に置いたのだが、それだけ浮いている気がして別の部屋からもってきた籠製のティッシュケースに入れたところ妻に「見栄っぱりだねえ」と言われてそのとおりで、そのティッシュケースも実は少し壊れていて取り回しが悪いので結局もとの部屋に戻し、スギ薬局のビニールに包まれたテッシュペーパーをソファの肘掛けにそのまま置くことにした。遅れてきたLさんはミスドを差し入れてくれて、粉もんに粉もんですねと言いながら美味しく食べた。

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